看護師転職ごっこ

転職を繰り返した看護師の私が毎日元気になれるよう、仕事、人生にふらふらしたときに気ままに書いています。

訴訟リスクに立ちすくむ外科医

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いつからそうなったのかと問われると、明確な記憶はない。

 ただ、気がつくと、手術をするのが「楽しくなくなっていた」ユウスケさん(30歳代、仮名)は国立大の医学部を卒業後、大学病院や地方の系列病院で研修医として経験を積んだ後、呼吸器外科医の道に進んだ。

研修医時代を含む外科医生活は激務だった。病院によっては一人で集中治療室(ICU)の管理を任され、多いときは週3~4回のペースで主治医として手術をこなした。術後の管理は原則、主治医が責任を持つため、帰宅後も投薬指示や容態確認と気が抜けない。

「いわゆる『三六時間連続勤務』は普通にありました。病院の机で仮眠するだけの日が続くと、病院で暮らしているのと変わらないなと思ったものです。残業代なんて、ほとんどつきませんでしたから、年収は500万円くらい。安いものです」

それでも、こうした生活をつらいと思ったことはなかった。むしろ、難しい手術を担当したり、「修羅場」に直面したりすると、がぜん気持ちが奮い立った。新しい症例に立ち会う機会があれば、疲労困億していても、積極的に名乗りを上げた。ところが、次第にメスを握ることに魅力を感じなくなっていった。理由は医療事故をめぐる「訴訟リスク」の高まりだ。

「気がつくと、どうすれば訴えられないか、どうすればハイリスクの手術を避けられるかということばかり考えるようになってしまいました。『訴えられるのが怖いから』というよりは、『訴えられるかもしれないという思いを抱きながらメスを握っても楽しくない』というのが、正確な心境でした」

医師不足のなか、多くの医師が体力的にも、精神的にも限界のところで医療現場を支えている。一方で、患者側の「よりよい治療を受けたい」「ミスは許さない」といった権利意識はかつてなく高まっている。
ユウスケさん自身、当直のときにこんな経験をした。腹痛を訴える男性が来院したとき、検査では異常が見つからなかったため、痛み止めを処方し、「明日、もう一度来てください」と伝えて帰宅してもらった。たが、結局この男性は現れず、数週間後、自宅で亡くなっているのを家族に発見されたのだという。家族は一時、診断ミスの可能性を指摘。

病院側は一貫して対応に問題はなかったと主張したため事態は収まったが、思えば、ユウスケさんの心に訴訟リスクとの言葉が陰を落とすようになったのは、このころからだったかもしれない。

「医療行為において、完全に正しい結果を予測することなんてできません。だからこそ、経験と技量と知識を総動員して、確率的に正しいと思われる選択を積み重ねていくんです。それなのに、最近は、患者が結果だけをとらえて過失やミスを訴える傾向が強まっている気がします。マスコミの論調もそれをあおっています」

次第に、あれだけやりがいのあった手術の魅力が消えうせていった。そうなると、過労死寸前の労働環境は苦痛でしかない。ユウスケさんは結局、外科医になることをあきらめた。

責任転嫁に抗議の退職

甲信越地方の自治体病院で神経内科医として勤務していたトオルさん(50歳代、仮名)も訴訟リスクに嫌気が差して職場を去った一人だ。きっかけは同僚の循環器内科医が医療ミスの責任を問われたことだった。この医師は血管の中にカテーテルという細い管を入れて行なうカテーテル手術の実績が豊富だったが、ある手術の最中、血管が裂け、患者が亡くなってしまったという。

トオルさんによると、カテーテル検査や手術では、たとえ医師による過失がなくても血管が裂ける事故は一定の割合で起きてしまう。「問題は事故が起きたときに緊急外科手術に切り替えられる態勢がなかったこと。現場の医師たちは日ごろからバックアップ体制を整えてほしいと要望していましたが、自治体側が財政難を理由に腰を上げようとしなかったのです」

ところが、病院と自治体は事故後、早々に事故の原因を循環器内科医のミスと認定した。医療事故で医師の責任が問われること自体は珍しくない。ただ、こうしたスピード認定の背景には、医師の過失を認めれば、患者や遺族への補償を医師賠償責任保険から賄うことができるという事情もあると言われる。

トオルさんは後日、自治体担当者の一人が「(事故は)自治体のカネに一銭も手をつけずに解決しましたよ」とまるで手柄話でもするかのように話しているのを耳にした。ミスを間われた医師は解雇こそ免れたが、結局は病院を去った。

トオルさんが勤めていた病院は救命救急センターとして三次救急を担っており、医師たちは典型的な過重労働のただ中にあった。「これが医者の使命だと思ったから、皆頑張っていた」。にもかかわらず、自治体と病院は自らの「懐」と面子を守るために、優秀な循環器内科医を切り捨てた。

彼の中で、そんな疑念がふくらんだ。トオルさんは本来なら、派遣元の大学病院に戻り、研修医らの指導医になる年齢に差し掛かっていたが、退職を決断。現在は高齢者のリハビリなどを担う慢性期病院で働いている。「自治体や病院に対する抗議の退職でした」と言う。訴訟リスクや医療ミスに伴うトラブルに嫌気がさして、優秀で意欲もある医師が第一線からこばれ落ちていく。

日本病院会が全国の勤務医を対象に行なった意識調査では、ヒヤリ・ハットを含む医療過誤の原因(複数回答)について、71.3%が「過剰な業務による慢性的な疲労」と答え、最も多かった。次いで「患者が多く一人当たりの診療時間、密度が不足」(62.8%)、「医療技術の高度化、医療情報の増加による医師の負担増」(57.8%)の順番だった。

また、医療過誤に伴う訴訟や交渉である「医事紛争」の経験の有無については、六・四%が「訴訟された」、19.5%が「紛争にはなったが訴訟はされなかった」と回答。これらを合わせると25.9%、つまり4人に1人がなんらかの医療トラブルを経験していることがわかった。

医事紛争が多い診療科は心臓血管外科や産婦人科。また、紛争後の影響としては、「防衛的・萎縮診療になりがちになる」が七割に上った。さらに、勤務医不足の原因については、 一位の「過酷な労働環境」、二位の「新臨床研修制度」に次いで、「国民。マスコミの医療に対する過渡な安全要求」が三番目に多かった。

医療の現場を萎縮させる訴訟リスク。ユウスケさんやトオルさんを含む医師の多くが、医師の「逃散」のきっかけのひとつになったとして指摘する医事紛争がある。「福島県立大野病院事件」だ。