看護師転職ごっこ

転職を繰り返した看護師の私が毎日元気になれるよう、仕事、人生にふらふらしたときに気ままに書いています。

看護師と医師の過労死の事実

モーレツ外科医

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医療従事者の過労死や過労自殺が社会問題化して久しい。死の瀬戸際まで追い詰められるのは看護師だけではない。

 関東地方の私立大学医学部を卒業後、系列病院に派遣されたミツルさん(33歳、仮名)はかつて、「モーレツ社員ならぬ、モーレツ外科医を地でいく働きぶり」だったという。

 高校、大学と続けたラグビーのおかげで体格はがっしりとしていて、体力勝負と言われる外科医は天職にもみえる。医局から派遣された県立病院では、毎月の時間外労働(残業)は厚生労働省が過労死認定基準(過労死ライン)として定めた約80時間を優に超えていた。

 「日勤」「当直」「日勤」を続けてこなす「36時間連続勤務」は少なくとも月4回。職場のロッカーにはいつも一週間分の替えの下着を用意していた。住まいは病院から歩いて数分のマンションを借り、携帯電話はシャワーを浴びるときもビニール袋に入れて浴室に持ち込み、緊急の呼び出しに備えた。

 「毎月の残業が何時間だなんて考えたこともなかった。外科医は忙しくてなんぼと思っていましたから。外科医は医師の中でも体育会のノリが強いのかもしれません。できません、代休をくださいなどと言った瞬間に使えないというレッテルを張られかねない雰囲気でしたし、僕自身、そういう気合と根性の世界は嫌いじゃなかったんです」

 同僚の働きぶりも似たり寄ったりだったという。「血尿や円形脱毛症などは当たり前すぎて話題にすらなりませんでした」当時、研修を終えたばかりで伸び盛りだったミツルさんは困難な症例や珍しい症例の手術に参加することが「楽しかった」。

 まだ経験したことのない症例で、大学時代の同期よりも早く、教授から助手に指名されることが「誇らしかった」。隣接する民間総合病院が二次救急医療から撤退してからは、36時間連続勤務の後、数時間仮眠しただけで再び日勤に入ることもあったが、「外科医として成長できる」と思うと、疲れは吹き飛んだという。

 まるで病院に住み着いているかのような生活に疑間を感じるようになったのは、結婚して子どもができてからだという。「何がきっかけと言うわけではないんです。ただ、ぼんやりと子どもの将来や妻との老後を想像したとき、今まですんなりと耳に入ってきた先輩や教授の「医者には自己犠牲の精神が必要なんだ」という言葉に、ふと違和感を覚えるようになったんです」

 しかし、芽生えた疑間に答えを出す前に異変は起きた。

 31歳の誕生日を迎えて間もないころだった。当直で担当した緊急手術が十数時間におよび、夜通し止血に追われ、一睡もしないまま翌日の日勤に突入。帰宅後は休日をはさんで15時間近く爆睡し、たっぶり休むことができたはずなのに、後頭部の重みが取れなかった。

 出勤した後も、手術方針を立てるための会議中、まっすぐ椅子に座っていることができない。夕方になるとついに、意識ははっきりしているのに、身体が勝手に椅子からずるずると床に滑り落ちてしまった。

 極めて軽い脳梗塞だった。自分たちが普段、「術場(じゅつば)」と呼んでいる手術室に患者として運び込まれるのは、不思議な気持ちだった。移動するストレッチヤーに横たわりながら天丼を眺めると、意外に目が回ることに気がつき、「患者も大変なんだな」と冷静に思ったことを覚えているという。

 さいわい、後遺症は残らなかった。しかし、回復後、ミツルさんは外科医を続けることをあきらめた。

病院に殺される

医師や看護師の自殺や過労死が報道などで社会的に注目されるようになったのは2年前後からのことだ。立正佼成会附属佼成病院(東京都中野区)の小児科医だった中原利郎さん(当時44歳)がうつ病を発症したうえ、勤務していた病院の屋上から飛び降り自殺したのは1999年8月の早朝のことだった。

ちょうどそのころ、意思疎通が難しい子どもを相手にするため、人手も手間もかかり、医療過誤訴訟にもつながりやすかった小児科は、全国各地の病院で閉鎖。縮小が相次いでいた。

他科に比べて診療報酬上も儲からない仕組みになっていたこともこうした流れに拍車をかけた。小児科不足の影響から、中原さんが勤めていた病院では、夜間休日の急患を中心に患者が増加。にもかかわらず、病院側は経営効率化を進め、従来6人体制だった小児科の常勤医は一時3人にまで減ったという。

激務が医師の退職を招き、一層の激務につながる。そんな悪循環のなか、中原さんも「日勤」「当直」「日勤」を連続して行なう36時間勤務や毎月5~6回の当直をこなした。亡くなる直前には、退職した医師の穴を埋めるため、当直が8回に及んだ月もあったとされる。

中原さんの妻のり子さんはその後の過労死裁判などの支援者らに向けた手記のなかで、当時の夫の様子をこう綴っている。

「病院に殺される」と口走ることもありました。俺はこのままではだめになる。狂いそうだと言いながら、ピアノの椅子を狂ったように殴り続けたこともありました。以前、温厚だった夫からは想像も付かないほど情緒不安定になってしまった夫に対し、私たち家族は腫れ物に触るようにして接するしかありませんでした。

中原さんが亡くなった後、職場の机からは、病院名が入ったレポート用紙に「少子化と経営効率のはざまで」と題した遺書とも受け取れる文書が見つかった。その「遺書」には、小児科医不足や過重労働の実態、国の医療政策の矛盾が記され、最後は「この閉塞感の中で私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません」と結ばれていた。

中原さんの死は当初、労災と認められなかったが、遺族らによる裁判を経て後に労災認定。さらに、遺族が病院側を相手取って起こした損害賠償請求訴訟では、2010年7月に最高裁で和解が成立、病院側は和解金として700万円を支払った。

一方、看護師では、国立循環器病センター(大阪府吹田市)の脳神経外科病棟に勤めていた村上優子さんが2001年2月に自宅で倒れ、一ヵ月後、くも膜下出血で亡くなった。倒れた直後、自ら電話で同僚に異変を伝えたが、すでに手遅れだったという。まだ25歳だった。

両親は優子さんのメールの記録や同僚らの証言から、1カ月当たりの残業は過労死ラインといわれる80時間に及んでいたとして、国の使用者責任を求める国家賠償訴訟と、労災に当たる公務災害の認定を求める行政訴訟に踏み切った。

一連の裁判での争点のひとつは、残業時間をめぐる対立だった。両親らの主張に対し、国側は「残業時間は月80時間に達していなかった」と反論。裁判では、国家賠償訴訟は敗訴したが、行政訴訟では大阪高裁が公務災害を認定、国側が上告を断念したことで、勝訴が確定した。

判決は、残業時間そのものは月50~60時間と認定したが、肝心の過労死かどうかの判断をめぐっては「時間外労働時間の量のみに基づくのは相当ではなく、業務の質的な面を加味して総合的に判断する必要がある」などとして、国側の主張を退けた。

それまでの過労死裁判では、残業時間が月80時間を超えていたかどうかが「勝敗」を分ける基準のひとつとなってきた。しかし、村上さんのケースでは、深夜勤と日勤が連続する不規則な交代勤務で十分な疲労回復がなされない場合などは、残業が月80時間を超えていなくても、過労死と認められる可能性のあることが示された点で、画期的な判例となった。

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また、2007年5月には、東京都済生会中央病院(東京都港区)の手術室勤務の看護師高橋愛依さんが致死性不整脈で亡くなった。当直明け、手術室のストレッチャーに横たわって意識不明になっているのを、同僚が発見したという。24歳だった。

「今日は当直。25時間勤務、仕事量が確実に私のキャパを超えているこの忙しさ……。絶対事故が起きるわよ」自分自身が救急外来に搬送されました。

高橋さんは亡くなる前、友人へのメールや日記などで過酷な勤務の実態を打ち明けていた。遺族側は、愛依さんは24時間にわたり勤務する当直を毎月4回こなし、一ヵ月当たりの残業は95~100時間に上っていたと主張。

病院側は労災を認めなかったが、管轄の三田労基署が過労死と認定した。