看護師転職ごっこ

転職を繰り返した看護師の私が毎日元気になれるよう、仕事、人生にふらふらしたときに気ままに書いています。

親の命と引きかえにしても助けたいいのち!

人がそこに生きていることの社会的な意味について深く孝えさせられたことがあります。

埼玉県に在住する32歳の主婦が書いたものです。

要約すると、六歳の長女の入院に付き添った機会に出会ったことを、「私は人生の見方さえ変えてしまう経験をした」と、「それは、となりのべッドのいわば、植物状態の女性を見たことでした。」

 

 

ご主人が傍らで見ていても頭の下がるほど手厚い看護をしていて、毎朝、もの言わぬ妻の耳のそぱで名前を呼び、それから出勤して行くのだった。

f:id:una-kowa:20150420161553j:plain

ある時彼は私に、「何の反応がなくても生きているって素晴らしいですね」と言った。私はハッとした。安楽死とか尊厳死とか言われる昨今「人としての生き方を孝えずにはいられなかった」と。

現代医療の進歩の陰には、この女性のように生命を救われた後にまったく意識が回復しないまま、長い期間をべッド上で過ごす患者さんの姿は珍しくありません。

恐らくこの女性の場合も社会復帰への道はほとんど閉ざされているといってもよいでしょう。でも、彼女がこの病院のべッド上で生きていることが、一人の男性(夫)の生きる張り合いになっているのです。

そればかりか、この夫の言葉を通して語られた生きている妻の存在の意味が、手紙を書いた主婦の人生観をくつがえし、投稿した新聞の編集長の心を動かしたのです。

この手紙に共感した数え切れない読者のなかの一人でもあった私は、その読後感を通じて多くの看護師や看護学生たちに、人間の生きる意味と価値について無意識に近いほど語り合ってきました。

病室の片隅のべッド上で外界からの刺激にも愛する人の声にも反応せず、ただ生きているだけの存在のように見える彼女ですが、その彼女を支え、見守る夫から発信された生きていることの素晴らしさは傾聴にあたいします。

たとえ植物状態になってさえも、人間は生きている限り誰かに影響を与え得る社会的な存在であることを教えているのです。

 

交通事故で「もう脳は死んでいます。たとえいのちは助かっても意識は戻らない」と医師に宣告された○○さんの状況です。

彼女は看護短期大学の学生でした。病院のICU(集中治療室)に搬送されたとき、まばたき一つせずロからは泡を吹き出していたといいます。

病院に駆けつけた母親は、「今、死んだほうが○○にとって幸せではないだろうか」との思いの一方で、「助かるものなら親のいのちと引きかえにしても助けたい」と揺れ動く気持ちを抑えながら、どんな小さな変化も見逃すまいと見守り続けていました。

ある日、仕事の帰りに立ち寄った父親の声に微かに反応した娘の涙を見て、「娘は助かる」との思いを強くしたといいます。

そこで、いのちの危機から一応脱出してなお、意識の戻らない娘の脳を刺激するために、一方的に話しかげながら熱湯に浸したタオルで一日三回もからだを拭き、そのつど手足を曲げ伸ばし手首足首をぐるぐる回し、一時間ごとにからだの向きを変えるなどし続けました。

こうした親の一念とも思われる手厚いケアで、45日目には意識が回復し、その後サインぺンで文字を書き、気管切開孔を指で塞いで発音し家族とのコミュニケーションができるようになり、とうとう歩いて退院する状態にまでこぎ着けたのでした。

娘の可能性を信じながら祈りをこめて、体をさすった母の思いとともに、○○さん自身の生きる力の強さを感じないわけにはいきません。

医師の宣告に左右されて早々と、もう駄目と諦めるのではなく、最後までその人のいのちの可能性を信じてケアをすることの大切さを教えられたのでした。

数年後、○○さんのその後を訪ねた看護師らが目にしたのは、地方の小都市でバリアフリーに改築した家で、家族とともに静かに暮らす姿でした。

松葉杖を必要としながらも、読書をしたり母の家事手伝いをしたりする彼女の様子を目の当たりにして、人間のいのちの可能性への信頼を決して捨ててはならないと、訪問した看護師は心に誓うことになりました。

また、「先生から「もう駄目です」「あと何か月です」と宣告されても、ひよっとしたら、明日この病気を治す特効薬が生まれながら知れないでいる。だから、今日一日がとても大切なの」と語った若い母親のことばを忘れることはできません。

彼女の愛児は、再生不良性貧血で度重なる出血で入院を繰り返していました。母の願いも空しく幼いいのちは尽きましたが、この母親のことばはそれ以来ずっと強く私のなかに生きていて、どんなに重症であっても目の前のその人のいのちへの希望を決して捨ててほならないことを思い出させます。

 

このようにベテランではありませんが、看護師体験のなかで出会った多くの人々の生きる姿から、学んだことは、看護の立場からの、その人のいのちへの向き合い方については、無条件でこれを肯定するということに尽きます。

したがって、この世に生まれた人間は、やがていつかは死ぬこと(生命過程での死の必然性)を認めたうえでなお、生命の積極的肯定の立場を堅持したいと願っています。

しかし、現実の医療現場でその思想を貫くには多くの困難があることも承知しています。

いのちを救う手段があまりにも進歩したために、ただ延命を図ること自体が医療経済面から見て無駄であると指摘する人もいます。また、哲学的な意味から限りある寿命を人工的に延長することへの疑義もあります。

しかし、だからといって、絶対にいのちの可能性に目を閉じるわけにはいかないのです。